|
|
|
|
|
|
|
|
HOME >> 観光情報 >> 観光・史跡紹介 |
|
|
観光・史跡紹介
◆田原坂 |
|
田原坂(JR鹿児島本線田原坂駅付近) |
|
|
田原坂は、小谷が入り込み複雑な地形をなし、玉名方面より植木・熊本地方に通じる重要な道路でした。 明治十年、この田原坂の地で南下する明治政府の官軍と北上する西郷隆盛率いる薩軍による激しい戦いが繰り広げられました。 これが、日本史上最大にして最後の内乱である『西南の役』です。 この戦いは17日間にも及び、多くの少年兵を含む約6500人の死者が出たと言われています。 弾と弾が空中でぶつかり合ってつぶれた弾丸も発見されていることから、無数の弾丸が飛び交う壮絶な戦いで あったことが容易に想像できます。
写真の美少年像は、この地で散っていった数多くの尊い命を象徴して立てられたものです。 勇ましく闘った少年兵の姿からも壮絶な戦の模様が感じ取れます。
また、戦中の模様を歌った民謡も全国的に有名です。 『雨は降る降る、じんばはぬれる、越すに越されぬ、田原坂〜、 右手に血刀、左手に手綱、馬上ゆたかな、美少年〜』 |
|
|
|
|
|
|
|
◆小野泉水 |
|
小野(国道3号線から植木町役場方面の道に入り約2.5km) |
|
|
国道3号線と国道208号線の交差点から、600mほど北にある交差点を植木町役場の方へ曲がり、2.5km程進むと小野泉水にたどり着きます。 世界三大美女の一人とも言われる小野小町の誕生の地です。 小野小町は平安時代の女流家人で、六歌仙の一人としても有名です。 有名な歌として、『花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに』という歌があります。 言い伝えでは、出羽郡司であった小町の父小野良実は、養父(小野篁)の罪に連帯して処罰され、この地への流罪に処せられました。 良実は、本国帰参のために勧進し、七国神社を建てたと伝えられています。 11年の年月が経ち、長女龍子、次女小町が誕生しました。小町が生まれた時、ここの泉水の水を産湯に使ったと伝えられています。 小野泉水では透明度の高い湧水が湧き出しており、色鮮やかな鯉を見ることができます。 鯉には餌を買って与える事もできます。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆味取観音 |
|
味取(国道3号線植木ICから熊本方面へ進み、最初の交差点近く) |
|
|
味取観音は国道3号線の植木インターチェンジから熊本方面に向かった最初の信号交差点の所にあります。 小野泉水公園と並んで付近の幼稚園や小学校の遠足ポイントの一つになっています。 本堂は小高い山の上にあり、多くの木々に囲まれ、とても国道3号線が側を通っているようには感じられません。 また、この味取観音は山頭火の居留地跡としても知られています。
山頭火は本名を種田正一といい、明治15年に山口県の防府市に生まれました。 早稲田大学文科を中退し、父と共に家業に従事しましたが失敗。ここから山頭火の流浪の生涯が始まりました。 大正5年、山頭火が35歳の時に熊本に来ました。家業も省みず、奔放な酒びたりの日々を送っていた大正13年、出家して禅僧となりました。 大正14年に味取観音の堂守となり、読経と句を詠む生活を送るようになったと云われています。 「松はみな枝垂れて南無観世音」と詠んだ句は句碑として境内に建てられています。 日本の俳句史上特異な存在として知られています。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆植木温泉 |
|
平島(九州自動車道・植木ICよりR3を山鹿方面へ進み、温泉中央入口の信号を右折) |
|
|
90年の歴史を持つ植木温泉。元々は平島温泉の名称で親しまれていましたが、昭和44年町村合併により『植木温泉』と改名されました。湯量が豊富で、50℃を超える温泉が湧き出ている所もあります。阿蘇、熊本城など観光地のほぼ中心に位置することから、移動途中の寄り道としての利用者も多いようです。植木温泉は植木インターチェンジを降りて山鹿・福岡方面に下り坂を降りきった交差点を右に曲がり、しばらく走ると一帯に温泉・旅館が広がっています。川辺には鴨がたくさん放されており、近づいて餌を与える事もできます(餌は予め用意しておいたほうが良いでしょう)。鴨たちは人になれていますので、近づくと餌欲しさに集団で近寄ってきます。癒されたい方はオススメです。ただし、絶対にいたずらしたり、虐めたりしないで下さい。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆宮原温泉 |
|
宮原(国道3号線沿い) |
|
|
植木ICから国道3号線を山鹿方面に10分ほど車で進んだところに宮原温泉はあります。国道沿いの大きな案内看板と「天下の名湯・秘湯」の旗が目印です。回りには田んぼが広がった中に長命館と元湯旅館があります。明治27年に発見された鉱泉で、神経痛、リューマチ、婦人病に効果があります。以前は飲用すれば貧血に効き目があるといわれていましたが、現在では衛生面を考慮し飲めなくなっています。この温泉の特徴は、赤湯・白湯の2つの天然温泉が楽しめることで、赤湯は鉄分を含み空気に触れると赤褐色になるそうです。白湯はアルカリ性でかすかに硫黄の匂いがします。この紅・白の縁起のよい温泉が話題となり、県内外から大勢の客が訪れています。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆合志川河川公園 |
|
米塚(植木温泉近く) |
|
|
合志川は約20kmの川で阿蘇外輪山の鞍岳の上流とし、下流は菊池川に合流しています。以前は美しかった川も、護岸工事や河川改修などで水質が悪化してきました。最近では川を守るための運動が行なわれるようになり、去年8月には、川の環境問題を再認識するためのイベント『川まつり・マリンスポーツフェスティバル』が開催され、カヌー大会や魚のつかみ取りなどが行なわれました。一方、合志川には数が減ってきているものの、めだかやスズキ科の淡水魚のオヤニラミも住んでいます。このオヤニラミは護岸工事などで水底の水が湧き出る場所を塞いだりすると川に住むことができなくなってしまいます。貴重な生き物を絶滅させないためにも、一度合志河川公園を訪れ、川の保護を再認識してみてはいかかでしょうか? |
|
|
|
|
|
|
|
◆鉄道跡 |
|
山鹿〜植木間(現サイクリングロード) |
|
|
植木町には鉄道マニア必見の鉄道跡が数多く存在し、駅の跡も残されており、かつてこの地で鉄道が活躍していたことを物語っています。その鉄道とはJR植木駅と山鹿市を結ぶ私鉄「鹿本鉄道」です。後に「山鹿温泉鉄道」と改称されます。鉄道経路は、山鹿から大道、来民、分田、宮原、平島、豊田、山本橋を経て、現在の植木駅までを往復していました。
その昔山鹿地区の発展の為に、有力者達が一致団結し開通させたこの鹿本鉄道は、山鹿温泉を訪れる観光客や、農産物などの輸送などに大活躍していました。しかし1953年に発生した大水害で大きな被害を受け、更に追い討ちをかけるように1957年に再び発生した大水害で鉄道の一部が分断されます。これにより国鉄(現JR)との連絡輸送が困難となり、次第に活気がうしなわれていきました。そして1960年鹿本鉄道の営業はすべて休止されてしまうのです。
現在では、その大部分がサイクリングロードとして生まれ変わり、町民に親しまれています。 一番左の写真は平島駅跡で、今でも文字の薄れた歴史を感じさせる看板が残されています。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆正院めがね橋 |
|
小野(小野泉水公園内) |
|
|
正院めがね橋は、安静三年(1856年)に正院川に架設されていた橋ですが、河川工事により昭和52年3月に、正院より小野泉水公園に移転して復元されました。この橋は凝灰岩製、単一のアーチ橋です。橋のサイズは、幅2m10cm、両脚間の幅は4m80cmあり、水面までの高さは2mです。楔石に陰刻銘があります。水を湛えた池に映る時の風景をお楽しみください。 特に、春の桜が満開の時期、秋の紅葉がピークの時のめがね橋の風景は格別です。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆鬼のいわや古墳 |
|
横山(小野泉水より歩いて10分) |
|
|
古墳がある横山(地名)は独立した丘陵で、その大きさは東西約1,200メートル、南北400メートル〜600メートルす。さらに西端近くで南の方にのびた小さな山と接しています。鬼のいわや古墳はこの横山の南斜面中央に位置しています。古墳のサイズは直径約20メートル、高さ7メートルの円墳で、南側に入り口があります。石室は複室構造の横穴式石室で、墳墓の入り口から玄室の奥までは全長9.6メートルです。中に入ると奥行き3.58メートル、幅2.67メートル、高さ3.77メートルの玄室があり、奥壁と両側壁に石屋形を構築してあります。玄室内からは副葬品として金環・鉄鏃・須恵器片、前室から馬具の一部が見つかっています。 近くには塚園古墳群、池上古墳、南原古墳などもあります。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆豊岡眼鏡橋 |
|
豊岡(国道3号線から国道208号線を玉名方面へ進み、県道31号線を左折) |
|
|
豊岡眼鏡橋は、享和壬戌二年十月に作られたもので、年号のはっきりしている石造眼鏡橋では熊本県内で最も古い橋といわれています。 享和二年は西暦1802年に相当し、江戸時代後期にあたり、熊本県で有名な霊台橋や通潤橋よりも古い橋です。 この石造眼鏡橋は両脚の幅12.2m、高さ4.4mあります。輪石と輪石を楔石で継いだ単一アーチ橋で、輪石の厚みは45cmあります。 この橋を渡って川沿いに添って進むと旧道があり、国道208号線へ出た所に『田原坂攻撃官軍第一線陣地阯』の石標が立っています。 官軍は田原坂本道の丘の右翼及び左翼へこの川沿いの旧道を通り、本眼鏡橋を拠点にして出撃していきました。
場所は、国道3号線から国道208号線の交差点を玉名方面へ約6km進み、公園入口信号を右折。約100m先右手に有ります。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆滴水のイチョウ |
|
滴水(JR鹿児島本線植木駅から北へ2km) |
|
|
遠くからでも確認できるほど大きな滴水のイチョウは県指定の天然記念物に指定されています。幹周りは14メートルもあり、樹齢500年といわれています。昔は龍雲庵という寺があり、現在でも樹下に阿弥陀堂が建っています。この樹は5本もの雄株が集合してここまで大きく成長したもので、一見すると普通のイチョウの外見とは違い複雑な形になっています。このイチョウは平家落人の墓標として植えられたと伝えられています。また、数百年前、ある男がこのイチョウの木を切り倒す話をしたところ、大銀杏の主である白蛇が美しい女性に身を変え、この大銀杏を切らないで欲しいと哀願したという伝説や、夜間に拍子木が鳴ったという伝説も残っています。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆三十六の眼鏡橋 |
|
清水(県道3号線にある天満宮境内) |
|
|
この石橋は、幕末の嘉永三年(一八五0年)に建てられたものです。架橋に携わった人物として、山本郡下大清水村庄屋畠山理左衛門、大清水村庄屋服部甚之助、玉名郡広村庄屋木村茂四郎、江藤又左衛門という名前が石碑に記されています。元々は千田川に架けられていたものですが、昭和57年に起きた水害が元で、撤去されることになりました。しかし、地元の人たちの橋を残したいという強い要望により移転されることになりました。現在は県道3号線にある天満宮境内の池に架けられており、池には鯉が泳いでいます。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆円台寺磨崖仏 |
|
円台寺(熊本交通センターより九州産交バス「西里経由植木行き」乗車「菱形小学校」下車 徒歩15分) |
|
|
円台寺跡の山裾へ下ると、火山灰がたい積してできた凝灰岩の崖に阿弥陀三尊像や阿弥陀如来座像をはじめ、多くの石仏が彫られています。この磨崖仏は1297年(永仁5年 鎌倉時代)に造られたと伝えられています。 今では170ほどある磨崖仏郡ですが、昔は500ほどもあったといわれています。見事な技が凝縮され掘り込まれた磨崖仏には、今もかすかに彩色の色が残っており、時がたった今でも作者の心が伝わってくるようです。 場所は、植木ICから国道3号線を熊本市内方面へ約5km進み、山田青果市場手前の交差点を右へ曲がります。 約4km進み菱形小学校の前の分岐を左へ向かうと円台寺に到着します。円台寺バス停のすぐ近くです。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆ひし形の池 |
|
円台寺(熊本交通センターより九州産交バス「西里経由植木行き」乗車「菱形小学校」下車 徒歩15分) |
|
|
ひし形の池は円台寺地区にある湧水で、西南の役の舞台でもある田原坂の近くに位置します。その名の通り、菱形の形をした小さな池です。欽明天皇の時代、八幡神がこの池に出現し、自らが応神天皇の生まれ変わりであることを告げたという伝説も残されています。何故この池が菱形なのか?これにはいくつかの説があるようです。 昔、農民が牛馬を池で水浴びさせていた為、神聖な池が汚されるのではないかと切石で池の周りを囲んだと言う説と、江戸時代、夏になると周辺の水が涸れてしまい水不足に悩んでいた所、村人が谷川に泉が湧いているのを発見しました。この水を何とか貯えようと池を作ったといいます。しかしこの時は正方形の池でしたが、谷川の中であった為、大雨などで負けないように菱形の池にすることを考え修復されたという説です。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆円台寺廃寺跡 |
|
円台寺(熊本交通センターより九州産交バス「西里経由植木行き」乗車「菱形小学校」下車 徒歩15分) |
|
|
円台寺は、比叡山延暦寺の末寺で、豊後国守護の大友能直(よしなお)によって、鎌倉時代初期に建立されたと伝えられています。 その後、応仁2(1468)年に再興され、大友義艦(よしあき)により、大永6年(1526)年に修造されたといわれています。 かつての参道は現在も残っており、その左右に坊が所在していたと推定されます。また、白山宮跡があったことにより修験道の道場でもあったことを示しています。
集落の中には、坊主屋敷、神屋敷、ぞうれん寺、山王下屋敷等、当時の名残りのある地名が存在します。また、石造笠塔婆は県指定文化財、磨崖仏像は県指定史跡に認定されています。 その他にも、室町時代のものといわれる如来像や、江戸時代に作られたといわれる十二神将像等、鎌倉時代から江戸時代までの石造物や彫刻が数多く残っています。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆円台寺石造笠塔婆 |
|
円台寺(産交バス 菱形小学校下車徒歩約10分 産交バス『山北経由玉名行』円台寺停徒歩約5分) |
|
|
円台寺の石造笠塔婆は2基あり、一基は1193年(建久4年)に、もう一基は1196年(建久7年)に建てられました。前者は、笠、相輪を失なった塔身だけが残っており、高さは88cmの小さなもので、建久3年12月28日、15才という若さで亡くなった弥朗の霊を弔うために、建久4年2月15日に建てられたものです。後者も、同じような形の塔ですが、頂部に笠と相輪が乗っています。しかし、笠と相輪は後世に乗せられたもので、元から有った部分は塔身のみとなっています。後者の塔は、入寂した学法房僧某のために建立したものであるといわれています。この円台寺石造笠塔婆は1965(昭和40)年、県指定文化財に認定されました。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆銀杏地蔵堂 |
|
植木(植木町派出所の隣) |
|
|
植木インターから国道三号線を熊本市内方面に進み、ロッキーホームセンター前の分岐にさしかかります。分岐左の旧道に進み植木郵便局の前を通過後の交差点近くに植木交番があります。交番には、大きな銀杏の木が有り、その隣に銀杏地蔵堂が建てられています。地蔵堂はきれいに清掃されており、今でも大事に受け継がれていることがわかります。中には二つの像があり、一つは三人の地蔵様が掘り込まれたもので文久2年(1862)年に作られました。もう一つは小さめの石に地蔵様の姿が彫られたもので、嘉永年間(1848〜1853年)の間に作られたようです。後者の地蔵には堂町縄屋宇平という銘が打ってあります。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆七本柿木台場薩軍墓地 |
|
七本(JR鹿児島本線田原坂駅近く) |
|
|
明治10年に起きた西南戦争のとき、木留・七本原付近で戦没した熊本隊や薩軍など329名が眠っている墓地です。 田原坂での攻防が続いていた当時、ここ柿木台場にはたくさんの兵が控える拠点でした。田原坂方面の第六次総攻撃を3月20日と決めた官軍は、前日の19日に、柿木台場の兵を分散するため熊本隊の守備地である吉次峠をわざと攻撃しました。情報収集に基づく官軍のおとり作戦がみごとに成功し、柿木台場に控えていた熊本隊は吉次峠へ援軍として向かい、後を高鍋隊に譲ったのです。夜中大雨の降った3月20日の朝方、濃いもやに包まれた柿木台場で兵士たちは深い眠りについていました。周辺に潜んでいた官軍兵士は、午前六時号砲三発の合図で一斉に敵陣に突入しました。 寝こみを襲われた兵士たちは、官軍の銃剣に刺し殺され、あっというまに柿木台場は崩壊したのです。 この柿木台場が陥落したことにより、田原坂道方面を守る薩軍が背後からの攻撃を受け敗走するに至ったのです。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆七本官軍墓地 |
|
七本(JR鹿児島本線田原坂駅近く) |
|
|
明治10年(1877年)西南戦争で戦死した政府軍の軍人276名、軍夫10名、警察官14名を埋葬した官軍墓地です。 官軍墓地は他にも、県内21ヶ所にあります。 墓碑には、階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所及び出生地などが刻まれています。 ここには、熊本鎮台14連隊所属の河原林少尉ほか、植木、滴水及び木留などの戦闘で戦死した東京、大阪、名古屋、広島及び熊本鎮台の兵士300余名が埋葬されています。 |
|
|
|
|
|
|
|
◆神の元水源 |
|
七本(JR鹿児島本線田原坂駅より徒歩約10分) |
|
|
神の元水源は、JR鹿児島本線田原坂駅より徒歩約10分で行ける距離にあります。JR田原坂駅と玉東町二俣の間那知山のふもとです。非常に水質がきれいで透き通った水が疲れた心を癒してくれます。5月から6月なかばにかけては今では珍しくなったほたるが乱舞する光景が見られます。ほたるが最もよく見られるのは午後8時過ぎごろだそうなので是非一度幻想的な光景を見てみてはいかかでしょうか?ただし、蛇が出るそうなので注意しながらほたるを鑑賞してください。ここの水は稲作時期になると、田んぼのかんがい用水としても利用されてるそうです。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|